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丸ノ内線沿線に残された、
歴史深き山の手邸宅地、宮坂。

かつて有栖川宮熾仁親王はこの地の風趣を愛し、皇族方の行啓を仰ぎ、観楓の興を催された。昭和九年、尾張屋銀行による宅地造成のときに出来たこの坂を、人は有栖川宮を慕い、宮坂と呼んだ。
( 出典:ぶんきょうの坂道)

現地周辺の街並(2016年6月撮影)

江戸の徳川将軍側近の旗本屋敷、明治の有栖川宮家別邸、昭和の大臣邸跡地という由緒ある山の手邸宅地。

  • 江戸時代(1856年)
    ■安政3年(1856年)江戸図 ※出典:復元江戸情報地図(朝日新聞社刊)を基に作図

    【江戸期】 六千石の旗本、平岡石見守中屋敷

    建設地は、美濃徳野藩初代藩主 平岡頼勝の子孫にして、第11代将軍 徳川家斉の側近として重用された小姓組番頭格御用取次見習平岡頼長を輩出した平岡家中屋敷跡地にあたります。周囲には上総鶴牧藩主水野家、一橋徳川家などの大名屋敷が置かれ、屋敷町が形成されていました。
    (出典:一橋徳川家文書摘録考註百選他)

  • 明治四十二年(1909年)
    ■一万分一地形図東京近傍 昭和12年修正測図より抜粋

    【明治期】 有栖川宮熾仁親王別邸

    明治維新後、平岡家中屋敷は嘉納希芝(三男が講道館柔道の創始者治五郎)の所有となります。当時の邸内は「林泉地塘の勝ありて風景すこぶる佳なり」と記されるほどでした。明治11年に、有栖川宮熾仁親王がこの地を借り受け、明治19年には同邸を譲り受け、たびたび行啓するなどこの地を愛されたと伝えられています。

  • 昭和十二年(1937年)
    ■一万分一地形図東京近傍 昭和12年修正則図より抜粋

    【昭和期】 国務大臣邸

    大正12年の関東大震災後、宮家別邸の広大な土地は尾張屋銀行( 後の尾張屋信託)により宅地分譲され、その際に出来た坂道が「宮坂」と呼ばれるようになります。宮坂の高台に位置する建設地には、法制局長官、貴族院議員を歴任した第一次吉田内閣の国務大臣が居を構えました。
    (出典:ぶんきょうの坂道 他)

■明治時代の山の手邸宅地概念図※明治時代の呼称を基に作成したもので、現在の地名とは異なります。

建設地は、皇居を取り巻く高台に出現した、山の手邸宅地の系譜を継ぐ地。

山の手邸宅地のルーツは、明治維新後の廃藩置県により武士が国元へ帰り、代わって皇居周辺の高台の武家屋敷跡地に政府高官や宮家、華族、富豪が移り住んだことに端を発します。明治42年地形図(上段中央)を見ると、建設地周辺には錚々たる華族邸、財閥当主邸が広がっており、まさに山の手邸宅地が形成されていたことがわかります。

有栖川宮熾仁親王像(有栖川宮記念公園)

有栖川宮熾仁親王
(ありすがわのみや たるひとしんのう、1835年〜1895年)

有栖川宮は、江戸時代初期から大正時代にかけて存在した宮家。書道と歌道を家学とする名門で、四親王家のひとつ。熾仁親王は明治維新において、戊辰戦争の東征大総督を務め、明治10年(1877年)の西南戦争では征討総督を務めるなど、幾多の武勲をあげ、陸軍大将をはじめとする軍事部門の最高職を歴任。また、明治政府における最高官職である政府総裁をはじめ、福岡藩知事、元老院議長を務めるなど政治家としても要職を歴任。明治天皇と最も関わりが深かった皇族のひとりと言われる。

山の手邸宅地の面影を今に伝える、
池袋1駅3分の都市利便。

現地周辺の街並(2014年5月・2016年6月撮影)

豪壮なる家々が連なり、独特の品と格を訪れる人に印象づける街。

昭和初期の分譲地の名残を伝える大区画の屋敷や、歴史を感じさせる石積みの擁壁、家々の庭先からこぼれる緑の潤い・・・。宮坂の両サイドには、中低層の瀟洒な家々が連なり、かつての山の手邸宅地の魅力を今に伝えています。幅員約9mのゆとりある道路は、車の交通量も少なく、静かで落ち着いた住環境が形成されています。

高偏差値の中高一貫校や国立大学附属校が並び建つ、文教色豊かなエリア。

建設地は都内でも文教色豊かなエリアのひとつ。周囲には巣鴨中・高、本郷中・高、豊島岡女子学園中・高、立教池袋中・高、学習院中・高といった高偏差値の私立校が集積。加えて、筑波大学附属小・中・高、お茶の水女子大学附属幼・小・中・高、東京学芸大学附属竹早幼稚園・小・中という国立の名門校も2km圏に集まっています。

■エリア概念図